mardi, août 31, 2004

       

typhoon house

 淀屋橋から裏のほうへはいると、そこには吉兆という料亭がある。こういう店の習いで、看板は目立たぬ。吉兆のむかいのホテルのラウンジから、吉兆のたたずまいをながめつつアイスコーヒーをすする。台風の大風がごうごうと街を鳴らすのをきく。
 昨日のあれは、予想通りよくなかった。…なんのことかわかるまい。大阪まで来ておいて、たいした成果もなし。さてと、帰るか、しかし淀屋橋の駅まで行く傘はなし。傘なんか、こんなに風が吹けば意味もないか。 

 

lundi, août 30, 2004

       

大阪を見て死ね

 大阪を見て死ね。
 大阪では横断歩道をフライングする人間が、東京より多いとかいう根拠はない。あんなのはテレビ屋の陰謀だ。「県民性」などというのがこのごろ流行っているようだが、アナクロもいいところであろう。ばかなこと言うな。あんなのでおばかな「上司」が「部下」をコントロールできると思っている。
 大阪も見て死ね。

 

mardi, août 24, 2004

       

世界の外側で何度も呼んだが中へは入れず

 少し前には日本国内で、一番じゃなくても一つだけでいいとかいう胡散臭い歌が流行ったものだ。その次に流行ったものといえば、なんだか世界の中心でなんか叫ぶらしい小説や映画であった。泣き所がさっぱりわからなかった。そして、これはまただいぶ前にだが、世界はたった100人の村にたとえられてしまって、このハナシもなんだかとてつもなく胡散臭いものだった。
 胡散臭いってなんと面白い字なのだ。世界はあまりに不均衡で、劇的である。外側を彷徨し続ける外猫が、今日は何度鳴いてみても中にははいれず。東京の空の下、30年以内に大きな地震が相模トラフで起こる可能性がかなり高いということで、さてそれは30年間のうちの明日のことかもしれないし、30年間の最後の日なのかもしれないなと、やはり、にゃあと鳴いてみる。すると、すぱっと首が切られてしまうのかしら。動物の虐待は人間に対する暴力に発展するという仮説に基づいて、功利主義的観点から動物の権利を保護しようという思考もあるようだ。

 

vendredi, août 20, 2004

       

虫が知らせる

 白樺の森に流れる深い霧を越えて、眠りの中にその知らせは来た。そして電話が鳴る。
「M町病院からなんや」
 今まさに命の火が消えようというときに、秋の冷気は暗い空からすうっと降りてくる。
 いまから行くとだけ言って、電話を切る。網戸から冷たい虫の音が流れ込んでいる。覚悟はできているな。そう言い聞かせて支度をすると、明けやらぬ街へと出て行った。

 

mercredi, août 18, 2004

       

サルファ剤入り

 「めばちこ」は関西の言い方で、関東では「ものもらい」などと言うのだろうか。目が痛痒いので点眼薬を使う。点眼薬の正しい点し方を説いたものを見たことがあるが、点眼薬の容器は垂直に持つのではなく横向きにして薬液を垂らすものらしい。たしかにそうするとうまく命中する。
 サルファ剤入りの抗菌点眼薬を持って、成田に短い旅をしたことがあった。成田駅から少し離れたホテルの部屋で、その金色の点眼薬を滴下した。次の朝も雨が強く降っていて、仕事を休む旨の電話をいれた。起きあがることができないほど体調が悪いのだと、嘘をついた。サルファ剤が効いたのだ。

 

lundi, août 16, 2004

       

その黒い影は、ゆっくりと近づいてきた。

 ハルシオンをピルケースから取り出して呑む。しかしそれだけで眠れるわけはなかった。夜中の一時過ぎだというのに、焼酎をやる。やがて目が回りだして、倒れこむように眠る。あくる日の夕方まで起きることはないだろう。
 携帯の呼び出しがなり続けているようであったが、それも夢の中のようであった。そして、カーテンの隙間から、この世のものではない何かがにゅるにゅると流れ込んでくるのを足元に感じた。
 いまは、何時なのだ。
 そこには、誰かが立っていた。夢か?夢ではなかった。その黒い影は、ゆっくりと近づいてきた。
 殺されるのか、ついに。

 

dimanche, août 15, 2004

       

個性なんか無視しろ

 学校で個性を尊重しようなんて,寒気がするような気持ちの悪いことを言わないでくれ.誤解をおそれずに告げよう.学校では,個性なんか無視しろ.個性なんかどこにあるんだ?みんな似たりよったりではないか.少々違ったからって,何を変える必要がある?学校ができることなんかあまり多くはない.学校にみんな期待しすぎだ.教育の「やりかた」なんかいじったって,あんまり何も変わらない.

 
       

憂鬱高原

 白樺の木立を抜けてくる風は冷たく、それによって行く夏を知るのである。
 かめむしたちが別荘の窓や通風孔から入ってこようとする。かれらも必死ですからねと、別荘オーナーの大学教授が語る。いろいろな虫たちが別荘を訪れる。しかしここにはカファルは、いない。カファルは都会の部屋の寝台の上にさえ現れる。
 野菜を売るスタンドには、ぼこぼこに育ったすばらしい夏野菜がならぶ。どれもこれも100円で相当な量がある。虹鱒が2匹でやはり100円。破格。毎日毎日虹鱒を食らう。
 何が憂鬱か。ここではよく眠れる。下界よりも気圧が低いからか。5時間ぐらいも十分な気がする。何が憂鬱か。何も無いだろう。

 

samedi, août 14, 2004

       

冷却雨

 明け方から雨が降り出したので、急速に冷却が始まっている。
 水道の水も冷たくなった。
 犬の散歩は傘つきで。横を通り抜けるパトカーのワイパーもきゅーきゅーと鳴る。公園のベンチに横たわっていた在住者も東屋に移動した。しおたれた花水木の木が濡れている。百日紅の赤も潤っている。
 こうして、ずっと雨が降っていたのだ。病院待合の長椅子で、ガラスの自動ドアの外の雨脚をながめながら大きな柱時計を見た。日々変化していく心電図を見る。心房ブロックが起きている。ICUの入り口の、粘着マットのハエを踏み潰した。

 
       

ネタがないと話もできないのか

 会話の潤滑油だとかなんだとか言って、くだらない話題を探しているのか。おハナシにならんな。会話を潤滑させないと、そんなに気持ち悪いのかい。
「そういえば、あなたの血液型は?」
「…」
「なるほど、それで協調性に優れているんですね」なんてな。
 
 

 

jeudi, août 12, 2004

       

from iran

 ある夜電話に出ると、外国語でまくしたてられた。
 どこにかけてるのだと片言英語で言うと、日本語で
「そこにイラン人いる?」
とかえってきた。イラン人はいないというと、ごめんねーと言って相手は電話を切った。
 かつて東京にはあれほど多くのイラン人がいたのに、いまは見かけなくなってしまった。

 

mercredi, août 11, 2004

       

泣く山

1996年8月、山が泣いているわと言うのをマンションのバルコンで聞いて、なるほど、立秋も過ぎると山河が泣くというたとえもあるのだな思ったのである。山が泣くというその夕暮れはやがて夜になり、窓越しに生駒山の遊園地の明かりを遠くに見て部屋をあとにした。

 浜名湖サービスエリアで、湖の対岸には舘山寺温泉のほうが望めた。やはり山が泣くので結局泊まらずに帰ってきてしまったという人のことを思い出した。山が泣くからあの世がやってくる。夏の終わりには山が泣いてあの世がやってくる。だれか気がついてくださいよと山が泣く。

 東京は、山が見えないから、あの世が近いと山が泣くのも気づかで夏のおしまいを生きることができる。京王電車の高尾山口駅のプラットフォームで、山が泣いているのに出会ったことがあった。しかし、そのとき一緒にいたO君は、まったくそんなことには気がつかないようであった。

 

mardi, août 10, 2004

       

nukes and beaches

 別に原発での死傷事故のことについて、一言物さんというわけではない。痛ましい最悪の結果であったが、今回思い出したのは、申し訳なかったがそのことについてではなかった。
 美浜原電(道路の行き先表示などでは、「原発」ではなく「原電」という表現をする)の見える海水浴場を過ぎさらに北上すると、大きなトンネルを抜けたところに、小さな漁村と砂浜がある。そこからも望める原電は、一時期ニュースにもよく出てきたあの高速増殖炉のあるところである。白木の浜は、100メートルもなかったかもしれない。浜の片側は漁港になっている。原電のあるほうの側は小さな磯になっていて、そこで砂浜は途切れている。混雑する海水浴場を避けて、海にゆったり触れたいがために、半島のもっとも奥にあるこの浜を幾度も目指したものだった。

 ともに訪れた友人たちとも休暇の日程がうまく合わず、若狭地方を中心としたあのへんの鄙びた海岸へは、近年はあまり出かけなくなってしまった。若狭の浜は、たいてい山が海と接近しているので、夏の山林の良い香りと磯の香りとが同時にたのしめる。しかも比較的遠浅の海岸が多く、小さな無名の浜なら閑散としており、ゆったりと過ごせる。着いてから帰るまでの間、われわれの他に、誰も来なかったということさえあった。

 原電の無機的な姿と美しい浜辺を、こうしてありありと思い浮かべることができる。福井県への旅行を取りやめる人が多く、宿泊施設などが打撃を受けているとのことだが、自分には、原発での事故などがかの地の魅力を減ずるというようなことは、考えられない。こうして行きたがっているのに。

 

lundi, août 09, 2004

       

supernova remnant

 帰り道は、道路のアスファルトがのっぺりとして見えるほうが、時間が遅い。中学生だったぼくは、あののっぺりとした路面を見ると、遅くまで帰宅せずにいる罪悪感さえ感じてしまったのだ。視線の先の、街路灯に照らされた路面のアスファルトがのっぺりしているかどうか、確かめたりしていた。ぼくは、かじかむ手を制服のポケットに突っ込んで、さびしい夕暮れの道を白い息を吐きながら歩いた。見上げる夕空、頭の真上には、力なく光を放つすばるがあった。
「超新星爆発」
 つぶやいてみた。光の速さで移動しても、何年もかかるほどの遠い世界。ぼくの生きる時間とはかけ離れた時間単位にある星ぼしのことを少しだけ思った。でも、あまりにそれは遠くて、未熟な少年には抱えきれないことだった。少年は、これから出会う、幾多の困難さえも知らずにいたのだ。

 

dimanche, août 08, 2004

       

haunted

 神社へ続く長い小径を、わきの森の中から幽霊が横切るのを幾度となく見たのだ。それは本当の光景であったかどうかは定かではないが、その夕暮れ時にも、そうして横切るのを見ているのだ。和傘をさした、和装の女性の姿である。
 自室から廊下へ通じる扉を完全には閉めずにおいたら、明け方の薄暗いとき、やはり和装の女性が佇んでいるのを見た。声をかけてしまった。すると彼女はすうっと廊下のほうへすべるようにして動きはじめ、どんどん加速して天井に吸い込まれてしまった。家ではその女の姿について何か語ると、電灯がふっと消えてしまったりする。祇園の霊能者は塩を盛っておけと言ったが、いまではそれもしていない。
 雨の降る日は、住宅街のブロック塀があるような角に気をつけるべきである。そこにはなにかこの世の者ではない、「存在感の薄れた」ものの「端っこ」が見えていたりする。そいつがずっとついて歩くことになる。
 夜の窓辺には、必ずそれがいる。家の中の、どこかでなにか音がしないか。

 

jeudi, août 05, 2004

       

born to say goodbye

 さよならだけが人生だとある詩人が書いたのはよくしたもので、もはや生まれてしまった以上はあとは永訣のことばを探すばかりの毎日の堆積だ。てらやまを知っているかとある若者が問いかける。いやいや、わしは書を捨てて街に出る前にショウを見て町の明かりに迷うのだ。
 出会いを求めて何をしている皆の衆。いまさら何に出会いたいというのだ。新しい出会いがたのしみだと?あほらしい!出会うからには、早いこと苦痛なきうちに安楽に別れのことばを決めてみな。格好よく辞世の句。厭世的なことをこうして言うてみたとて、なるほど評判も良くなかろうて。

 それならば…やあ!ようこそここへ!鳥は青とはかぎらないけれど、ここは苦悩と快楽が適度にちりばめられたウツシ世だ。現世と書くが、いともたやすく「遷し世」だ。いっぱいであって、すべてと別れを経験しろ。そうして最後ににやりとわらえ


 

mercredi, août 04, 2004

       

樹の記憶

 池袋駅を出ると電車はそろそろとカーヴを通過した。車窓からデパートや高層ビルや、清掃工場の煙突がゆっくりと後ろへと流れていくのが見えた。やがて速度が増し、いくつもの駅をどんどん通過していった。いつの間にか、練馬辺りは高架化していた。高い位置を走る電車からは、はるか遠くに霞む富士山の山影が望めた。
 ぼくは、長らく石神井のアパートを訪ねていなかったから、ゆう子がドアを開けてくれるかどうかわからなかった。駅からアパートまでの道程を、これほど力なく歩いたことはなかった。途中にある公園のの大きな背の高い木々が、風にざわめいていた。ぼくがその下を歩くと、葉ずれのざあざあという音が降ってきた。
「メタセコイヤ」
 ぼくは大木の幹に着けられたプレートの、小さな文字を読んだ。ゆう子がこの樹の名を、何かの話の中で言っていたのを思い出したからだ。
 調布のマンションの庭にもメタセコイヤが植わっていて、上層階の廊下から見下ろすと、ざわざわとその大きな木が風に揺れているのが見えた。京王線の駅から延々と歩いてきて、家族が留守のときに、ゆう子はその部屋でぼくと何日か過ごしたりした。あのころ、ふたりともその樹には何の関心もなかった。
 ゆう子は、何も知らなかったこの樹のことを調べていた。昭和十四年に、四国出身の三木茂という学者がこの樹の化石を発見したことや、中国四川省の唐刀渓というところで、この樹が生きた化石として昭和二十年に発見されたこと、現在日本にあるメタセコイヤは、昭和二十五年に中国から送られてきた百本の子孫だということも。

 

mardi, août 03, 2004

       

しょうなんがおかにて

 バスは長い坂を登り、トンネルを抜け、ひな壇のような新興住宅地の中をひたひたと走った。やがて停車した停留所に、他に降りる客もなかった。そこから、開発されずに残った山林に沿って歩いて一分もしないで、そのモダンな家に着く。その家は別荘として建てられた洒落た造りで、二階にも玄関が設けられ、そこからあの広々としたリビングルームにすぐに入ることができた。
 湘南らしい明るい空が、大きな窓から望めた。彼はその家の人々から、表向きは歓待された。ある夏の休日をそのように過ごせたことは、孤独のうちにあった彼の生活を、明るく照らすことになるはずであった。しかし、彼の胸のうちに訪れたのは、深い沈黙の夜であった。

 
       

遠くの花火

 連日どこかで花火があがっている。
 この辺りではけっこう高いビルの展望室から、数十キロメートル離れた花火があがるのを見た。街明かりが途切れた先の暗幕のような低い空間にケシ粒程度にしか見えず、それはしょぼしょぼとちらついていた。
 テキサスの、二度と発音できないような聞いたことのない町から来たという白人の大男三人組が、行き交う人もない休日の夜の都心の地下道を大声で何か話しながら去っていくのを見たし、帰宅を急ぐ人々で混雑する駅のホームでは、心停止した男が蒼白になった身体を横たえて、マウストゥマウスと心マッサージを受けているのにも遭遇した。
 同じ都市の底辺の同じ夜に、この身体が経験したことだったのか。離人というのは、自らの経験が現実感を失い、だれか他人が経験していることのようにかんじられたりすることだが、遠くの花火がそのような感覚をじわじわと、この卑近でくだらない日常些事の連続に持ち込んだ。
 音も届くことなく小さく爛れていくような遠くの花火。その僅かなあかりを誰がそんなにも遠くから見つめていたろうか。