vendredi, juillet 30, 2004

       

learned helplessness

 学習性無力感とか、学習性無気力とか。
 何度やってもうまくいかない時、何をやっても裏目に出る時、事態を打開するために何かをするという努力を放棄する状態。抑うつや行動の制止を説明する概念。
 無気力は学習の結果生るのだという、提出当初はなかなか斬新でイケてる理論。
 イヌの電撃回避実験、ラットの電撃回避のトリアディックデザイン。
 
 学習性無気力の旗印の下に。何にもやりたくないぜ。だいたい、努力してみてうまくいったためしがないぜ。努力なんて、おれには意味が無い。うまくいかないに決まっているんだ。

 

mercredi, juillet 28, 2004

       

ああうるさい

 独りで苦しめ病というのが見出されるようになってから、随分年月が経っているようであるが、あれは現代に特有の病だとか言う妄言があるようである。何しろ、手を差し伸べる優しき人々に呪いのことばを吐き、うるさい、おれに触れるな触れてくれるなとわめくのだから、昨今のメディアが放っておくわけがない。かくして現代メディアの餌食になったおれは、独りで苦しめ病の代表格を気取らされるので、現代特有の障害ということになってしもうたらしい。
 大学の偉い先生が、おれの腹のうちを探るとて頭蓋骨の中心に聴診器をあてるのだが、その中には、おれを操縦している輩がいまも呻いているから気をつけな。

 

mardi, juillet 27, 2004

       

ball in your throat

 喉に異物感があるのに、実際には何も喉にはない。精神力動によってその機序が説明されたヒステリーのうちの一つだと考えられて、ヒステリー球と呼ばれるようになった。固唾を呑むという表現にあるように、喉の感覚は感情の変動と密接な関係にある。数あるヒステリー症状のなかでも、もっとも人気のある症状かもしれない。青年漫画誌の "M" に連載されている心理ネタの漫画に、このヒステリー球が出てきたが、あれは実際に患者の喉に腫脹があるように描かれていた。あんなのは間違いだ。

 魚の骨を喉に引っ掛けたときに、水などを呑んで流し去ろうとしてもなかなか違和感が取れないような経験をした人も多いだろう。腫れがあるという感覚よりもああいう違和感のほうがヒステリー球に近いかもしれない。患者は、たとえばりんご大の異物が喉にあるような感じという報告をすることがあるが、飲食したり、喋ったりするのには通常は不便を訴えない。

 その喉の奥のボールは、さっきわしがお前の口をこじ開けて、お前に気づかれないうちにねじ込んだのだ。そういうお前の態度に業を煮やしたのが始まりで、いろんなものをお前の喉にぐりぐりとねじ込んでいるだけだ。

 

 

dimanche, juillet 25, 2004

       

籠城する青春

 青年は籠城している。遠く離れたところのようなふりをして、じつはその未だ矮小なる精神の内的世界に。 
 「疾風怒濤」などと、独逸文学の潮流と同様の名称を冠した青年期は、しかしながらロマンのかけらもないところ。もっとつまらない、退屈な日常の往復運動。
 だいたい、だれがそのような旅路にあるか。退屈でつまらない日常の連続にこそ耐えられる強度を、したたかに己の身体に呑み込まねばならない。

 

vendredi, juillet 23, 2004

       

handling laboratory rats

 ハンドリングといって、ねずみどもを一匹ずつこねくりまわすようにいじる作業がある。かなり面倒な作業である。あの飼育室は暑くて、くさい。腹や背中の皮をこねこねして、手のひらのうえに乗せて、退屈なのでねずみを腕の中に抱いて廊下まで出てしまう。ほんとうはあまり外へ出してはいけないのだが、ねずみを抱いたまま廊下の時計を見ながらうろうろする。
 慣れてくるとねずみはぐにゃっとしたかんじになってくる。初めてつかみあげられたとき、ねずみはかなり抵抗する。そのとき白衣の腕はねずみの尿で濡らされ、手には糞を着けられる。いま現在、ぐにゃぐにゃくんたちは五匹。これから夏中、厳しい訓練を乗り越え、ホンモノの精鋭ラッツになるのだ。

 

jeudi, juillet 22, 2004

       

hey, officer!

 深夜自転車で家路をいそいでいると、よく警察官が声をかけてくる。あれを無視することがよくある。自転車の防犯登録を確認する間、待たされるのが嫌なのだ。追いかけてきて「こんばんワー」と前に回り込まれて停止させられたこともある。わるいが、自分はまったく協力する気なんかない。

 防犯登録を確認しながら、「この自転車は、どこで買いましたか」だと。何度も訊かれた。あれは多分そう尋ねろと教えられてるんだろう。警察官たちにたいしては、いろいろご苦労様だと思うが、かかわりあいには、極力なりたくないと思う。彼らの問いかけに応えていると、必ず不愉快なのだ。

 

mercredi, juillet 21, 2004

       

don't leave it...

 このことと関係はないのだが,巣束のコーヒーが,あまりうまいとは思えない.巣束の take out のプラスティックカップを,電車に置き去りにする若いあほカップルを見た.電車は混んでいたが,女はしゃがんで二人分の空きカップをドアわきの隅にそっと置いた.持ち帰りなんざあんな連中にさせてはいけない.おれと一緒にそれを目撃した連れは,「あんまりいい顔してないね」と,彼らのことを.やつらの部屋にいつかおれんちのごみを投げ込んでやろう.
 彼らは言うのかもしれない.電車を清掃する係員は,それをすることによって金をもらっているのだと.

 

mardi, juillet 20, 2004

       

delayed payment

 6月分の出来高の仕事の給料の一部がまだだと苦情を言いに行ったらば,7月の振込み日は過ぎてしまっているので8月の給料日にだと.どういう神経なのだろうか.こういうことばかり起こるなかなか根性のある会社じゃ.くそ.

 

lundi, juillet 19, 2004

       

summer festival, in the apartment complex...

 紙コップの生ビールを飲み、屋台で買った、やたらあぶらっこいチヂミを食った。こんなときでなければ、こんなものを食べる気になどならないだろう。ぶんぶんと唸りをあげる発電機の灯に、開放感に浸りそぞろ歩く人々の群れが照らされていた。大きな公園に隣接した広場には、ステージが設けられ、屋台が立ち並び、ごったがえしていた。伝書鳩の鳩舎の列のような、ニュータウンの団地に住む「都市生活者」たちの、都市生活におけるささやかな幸せのようなものを、そこでは誰もが消費しているのだった。
 

 

dimanche, juillet 18, 2004

       

都市公園を抜けて

 都市公園を抜けて,その女が住んでいたというアパートの前に行った.その部屋には,住人はあるようだったが気配はなく,隣室の窓が開け放たれ,上半身裸の若い男が低い座卓にむかって食事をしているさまが丸見えであった.電車をいくつも乗り継ぎその場所を目指してやってきたのだが,現実的な日常的光景を目の当たりにして,気温はまだ摂氏三十度を超えているであろうその夕暮れ時に,矮小な精神をここにくすぶらせている自分をまたも発見するのである.ある日の猛暑の午後の終焉である.

 

samedi, juillet 17, 2004

       

softness in the head!

 電車の中で, ケータイ(この書き方は,いかにもあほな表記である)を何するでもなくただいじくり続けながらだらだらと談笑する高校生の運動部の連中を見た.ああやって用もなく携帯電話をいじくり続けるのは,いかにも頭が弱そうにみえる.頭が弱くなっていってしまうのではないかと思う.
 彼らにとってのケータイ,あれは,多義的に媒体なのである.誰かと会話をしたり,E-mailをやり取りするだけの媒体としての携帯端末であるだけではなく,その場に居合わせる誰かとのあいだの,「まもたせ」の媒体でもあるのだ.
 携帯電話ばかり使って,血の通ったコミュニケーションはどこへやら的なありがちな文句は,年寄りのひがみに過ぎないのだと思うが,彼らは確かにああやってちびっこい情報端末をもてあそびながら,だんだんと頭を弱くしていっているのだ.愚かで,のどかな光景である.

 

vendredi, juillet 16, 2004

       

どこへでも行け

どこへでも行け。
出来るだけ遠くへ行け。
それが出来ないならば、お前は生きている資格がない。